安形です。月虹製作は7期目に突入し、すでに3ヶ月が経過しています。今回は1年半ぶりのブログ投稿ということで、この期間における月虹製作のありとあらゆる出来事をすべて書いてしまわないかと心配になったのですが、自制心を保ちながらタイトルの通り、ここ3年間を振り返ってみたいと思います。
安形です。月虹製作は7期目に突入し、すでに3ヶ月が経過しています。今回は1年半ぶりのブログ投稿ということで、この期間における月虹製作のありとあらゆる出来事をすべて書いてしまわないかと心配になったのですが、自制心を保ちながらタイトルの通り、ここ3年間を振り返ってみたいと思います。
4期目:2017~2018年 試練と希望
会社設立時に目標としていた3期連続黒字をなんとか達成したのですが、4期目はとても辛い時期でした。
そもそもなぜ、設立したばかりの会社が3期連続黒字などという目標を持たなければならなかったのかは、いつの日か月虹製作の設立背景について語れる機会にでもと考えています。
ここでは簡単に説明しますと「設立時の月虹製作の事業は慢性的な赤字事業であり、且つ大きな負債を抱えてのスタート。黒字にこだわったのは営業キャッシュフローをプラスにしないと続けていけなかった」ということです。約2年間は金融機関からは全く相手にしてもらえず、申し込み前でも「無理」と言われていました。創業融資制度さえ活用できず、外部からの資金調達は全くできませんでした。振り返ってみれば、助成金の活用などで様々な方法があったかもしれませんが、この事業そのものを健全且つ継続可能なかたちに改善していくためには、損益としてプラス、営業CFもプラスであることが必須と考えていたため、少しでも利益を積み重ね、自力での資金安定化を目指すほかなかったのです。
1期〜2期目の業績がなんとか評価され、3期目にやっと融資による資金調達ができました。当時の事務と、これで大規模な案件も安心して受注開発できるなと、胸を撫で下ろしたのをよく覚えています。
話が逸れましたが、そんなかたちでなんとか3期連続目標を達成したわけですが、4期目のはじめの3ヶ月は、特に目標達成に手を叩いて喜んだわけでもなく、次から次へと降り掛かる課題に頭を悩ませていました。それは特に社内のことです。わたし自身もどこかしら、取り組むべき問題を解決する気力を少し失い、事務所に行くのさえ気が重い毎日となりました。
そうこうしていると、月虹製作にとって大きな転換点を迎えます。わたしとほぼ同時期にこの業界に足を踏み入れ、公私ともに長い付き合いをしたエンジニアの1人が会社を去ることとなりました。少人数の会社ですから、大黒柱の1人を失うことは開発力を低下させることと同義です。設立以来で最もわたしの心を大きく揺さぶる出来事でした。
転職が当たり前となった今では、社員の退職や入れ替わりに一喜一憂していてはならぬと、気持ちを前へ前へと向けていたのですが、わたしの勝手な感情として、これから一緒に仕事ができなくなる寂しさから抜けきることがなかなかできませんでした。過去一緒に我々の仕事について語らったことを思い返すような日々が続き、後ろ向きな気持ちになっていたかもしれません。
そうこうしているうちに、7月頃には当期の決算までに必要な売上をカバーすることは難しいと考えるようになりました。わたしのちょっとした後ろ向きな考えが追い打ちをかけるように営業活動を消極化させてしまったことは事実で、深く反省をしました。そのときの自分が、赤字決算に対して過剰なアレルギーを持っていたことは確かではあったのですが、事実を受け入れ、財務状況を確認し、来期のV字回復に備えて当期の赤字決算を決意しました。わたしにとっては試練でしたが、中期的な目標が明確になったことがきっかけでどこかしら晴れやかな気持ちになり、日々を無為に過ごすことなく、気持ちを前に向けられるようになりました。
なによりこの時期に、入社わずか2年ほどの社員が懸命になって重要な仕事を立て続けにやりきり、乗り越えてくれたのは本当にうれしかった出来事で、希望となりました。この開発が5期のスタートダッシュに繋がったことは言うまでもなく、開発リスク、社員が負ってしまうプレッシャーや苦労を理解しながらも、チャレンジさせたことは、決して忘れられない成功事例となりました。
また、この時期に初めて営業してくれた銀行が、初めてとはいえ赤字決算を予定していた弊社に積極的に支援をしてくれました。これも、これまでの努力の結果として受け止め、来期V字回復に向けての心強さとなりました。
5期目:2018〜2019年 もうひとつの試練
悔しかった4期の減収減益、赤字決算を経て、今期は必ず増収増益する計画でした。予定通りスタートダッシュが成功し、順調に数値を積み上げながら下半期の営業や開発計画を立てていたのですが、それもつかの間のことでした。
上半期が終わる3月頃に、弊社のサーバーを設置しているデータセンターが「物理移転」するとの話が進みました。計画は耳にしていたものの、具体的な時期が決定したら、awsへの全面移行を視野にいれつつ、コストシミュレーションや検証期間を含めて約1年もあれば安全に移行はできるだろうと考えていました。
しかし、このときに伝えられた移設作業にあたる期間はたった3ヶ月。そのすべての移設費用や稼働コストを自己負担で行うため、当期の売上となる開発案件から毎日の保守活動に大きな影響がでることは必至でした。なにより新しい環境に対する検証評価の時間がまったくとれないなか、aws等のクラウドへの移行はコストシミュレーションがとれず、動作実績がないというリスクが高すぎたため、諦めざるを得ませんでした。短期間で最も安全な移設手段を考え、移転先に新たなサーバーを設置したうえで旧サーバーからのデータ移設という計画をとらざるを得ず、急いでハードウェアの調達やプランを計画しました。
計画から準備、実行に至るまで、許された期間と人員でこれらをこなさなければならないプレッシャーは大きなものでした。V字回復のために順調に積み上げた売上計画が、一気に破綻するリスクを負いながら、弊社のエンジニア2名が夜を徹して作業を行ってくれました。わたしもデータセンターでサーバーの設置を手伝うなど、可能な限り迅速に、安全に移設ができるよう全社で取り組みました。開発や保守の仕事に手を抜かず、サーバー移設作業も手を抜かない。こんなことが本当にできるのだろうかと考えていましたが、当期はどうしてもやらなければならない。
移設作業中は当然のように予期せぬトラブルがいくつも発生しました。これは準備と検証期間に時間を取ることができなかったのが原因です。データーセンター側に度々の交渉を行っても、旧データセンター側のネットワーク停止日はもう決定されていたため、最低限のリスケをすること以外、現場の負荷を下げることができませんでした。動作検証が深夜にまで及んだとき、わたしはその場にいてもなんの役にもたたないことがわかってはいても、エンジニアのそばを離れることはできませんでした。久しぶりの2夜連続の徹夜はわたしも嘉藤田も疲弊しましたが、朝方に二人で食べた牛丼の美味しさは忘れられない味となりました。
移設を遅延させることはできない、予算はすでに超過している、受託開発のリスケも限界であったタイミングで、比較的大きな規模の案件を受注したのも皮肉なものでした。
サーバー移設作業については、多少の計画遅延やトラブルはありましたが、お客様たちにもご理解ご協力をいただいたことで移設完了から現在まで、稼働は安定しています。社員たちが精一杯に努力し、この責務を全うしてくれたことを、本当に感謝しています。
また、決して揺るがすことのできなかったV字回復の目標は、サーバー移設に関連する費用は大きな負担となりましたが、4期の損失を概ねカバーできる結果となり、当社にとっては同時に2つの大きな試練を乗り越えることができました。
「小さい会社であることを言い訳にしない」「会社の規模で顧客や社員を不安にさせない」設立当初に決めた自分への約束を少しだけ破ることにしました。わたしは初めてみんなの前で「たった数名でこれだけのことをよくやってくれました」と伝えました。
本当に感謝してもしきれません。
6期目:2019年〜2020年 そしてコロナ禍へ
前期の業績回復は会社にとってもわたしにとっても大きな自信となりました。このまま順調に、まずはエンジニアやデザイナーの補充をし、これから少しだけ会社を成長させるため、当期はその足がかりとしての活動を予定していました。期首から順調に売上を積み上げ、12月頃にはエンジニアの採用活動を中心に積極的な経営をしていこうと考えていました。
2020年の年明けにわたしが社内のSlackへ、新型コロナが日本にも上陸する可能性があると、ニュース記事のリンクを貼ったのですが、そこからあっという間に日本での感染者が増え始めました。
2月初旬に「札幌で1人でも感染者がでたら在宅勤務に切り替えよう」と総務と相談をしていたのですが、中旬には札幌での感染者が発表され、わたしたちは初めて全面的な在宅勤務に移行することにしました。わたしはもともと全面的な在宅勤務は反対派であり、出社を基本として個人の事情に合わせて部分的に導入するのがベストと考えこれまで運用してきました。ですが、この感染対策としての在宅勤務は、むしろ会社から義務として社員に提示しなければならないことで、新たな業務、開発ルールや勤怠管理の方法など、やってみなければわからないことだらけです。その頃はまだ「少し大げさだったかな」とは思っていたのですが、通勤しなければならない人たちの安全、なにより社員の安全を考え、我々のような業態がまず率先して通勤人口を減らすべきと考えての決断でした。
日々Slackなどでの情報共有を徹底していたからか、業務にはさほどの影響はありませんでした。そのおかげもあり、カメラも音声も繋ぎっぱなしではなくとも、開発に必要な最低限の情報共有は円滑に行えました。勤怠管理も通勤時のカード認証型からSlackへ日報をあげた時間で管理するように切り替えたのですが、総務の澤が出勤から退勤、残業時間の管理まで毎日のように細かくチェックをしてくれたことで勤怠管理上の大きな問題も起こりませんでした。
しかし、普段何気なくしていた会話やコミュニケーションが失われたことで仕事が円滑に行えなかったともありました。ちょっとしたやり取りでも言語化が必要となったことは会社にとっても良い経験となりましたが、この在宅勤務によるコミュニケーションコストの高さは、普段「場のムード」を頼りにして社全体の統括をしていた自分にとってはとても大変なものでした。
これまで無意識に行えていた問題提起や議論を、意識的に行う必要があるからです。問題が起きていないのに問題化しようとしたり、議論にしなければならない重要な検討要素がどこかに放置されていないかを探し回ったりしていたと思います。最初のころは会議を行う心理障壁が大きく、これまでのようには現場を掌握することが難しかったのです。しかし、それらにも2週間ほどで慣れ、毎日のZoomでの会議は週1度から2度程度までに減少し、必要なときに必要なだけ行うことで解消されました。とにかく問題に対する感応度を高めすぎず、異常に対して社員から声をあげてもらうことが大切でした。
緊急事態宣言が解除されたあと、徐々に出社を解禁しましたが、感染者数が落ち着いていた夏ころには、出社の希望が多く、月に一度ほどは全社員が揃うこともありましたが、先の見えない状況が続きました。在宅勤務が定着した頃、事務所を撤去することも考えはじめました。
6期はこのような状況ではありましたが、本来の受託開発と保守業務に専念をし、採用活動をはじめ、業績も堅調なものとなりました。
会って話をすることが特別なこと、だからこそ
7期目に突入し、わたしは事務所の移転と縮小、あるいは撤退を真剣に考えていました。「会社という物理的な場」の存在意義が揺らぐ1年であったためです。
在宅勤務の義務化以降で、定期的に行っていた社員へのアンケートでは、感染症対策に関係なく今後も在宅勤務を中心としたい、という意見はありませんでした。これまでも必要に応じた在宅勤務や時差出勤も許可していたのですが、永続的に在宅勤務という働き方は、やはり社員にとっても極端なものに思えたのかもしれません。今後は、出勤する人数を限定しながら基本的に出社、在宅は任意で決めるという方針をとりましたが、やはり出社したい社員が多くなるケースもあります。通勤時に仕事モードへ頭を切り替えていた人、事務所の椅子で仕事をするのが好きな人、オンオフをしっかり分けたい人、それぞれに理由がありました。
しかし感染者が減少しても、出社を全面的に行うことはできず、わたしたちは会って話をし、一緒に仕事をすることが普通のことではなく、特別なことになりました。
わたしたちは家族でも友人でもなく、あくまで仕事の仲間です。会わずとも仕事は円滑に行うことができます。それでもわたしたちは、一緒に仕事をする仲間と会い、目を見て話をすることを大切にしたいと考えています。そこでわたしは、慣れ親しんだ事務所はそのままに、少しでも快適に、会社での仕事をより新鮮にし、通勤する価値のあるものにするべく、事務所を全面的に改装することにしました。
この事務所の改装は総務の澤が、わたしのわがままと業者様との間に挟まれながら、予算の調整、スケジュール、ビル管理会社との話し合い、引き渡し完了までのすべてを取り仕切ってくれました。本当に大変だったと思いますが、素晴らしい仕事でした。その代わり、わたしのわがままを聞いてきてくれた澤は、欲しかったSONYの一眼レフは何度お願いしても「おやおや〜、それは我慢してください」の一言しか返してくれなくなりました。
新しくなった月虹製作の事務所には、2月から少しずつ出社をし始め、身の回りの環境を整えつつあります。
これからの3年
ずいぶんと長文となりましたが、ここ3年間を、わたしが普段つけている日誌を元にして書き出してみました。
わたしたちはこれまで、顧客の予算に合わせながらも開発コストは削らず、最大限良いものを作り、提供しようと頑張ってきました。結果的に、その仕事単体では赤字になるようなお仕事もかなり多く受けてきました。特に、設立したばかりのときはあまりにも無名で信用もなかったため、わたしたちのパフォーマンスを認めていただき、また再び声をかけてもらえればと、そんな思いでお客様のWebサービスを開発してききました。しかし、そのスタンスは今でも変わりません。設立したての頃は、応援してくれる顧客も多いなか、会社の設立背景を知らず、心無い言葉をいただいたり、まったく見に覚えのない噂を立てられたこともあります。平然を装えず、悔しくて夜も眠れないこともありました。社員を送っていく車のなかで「年に一度だけ、この仕事をやってきてよかったと感じられれば、俺はまだ戦える」と、社員を励ますつもりが自分を励ましてしまったこともあります。
そんな月虹製作ですが、お取引いただいているほとんどのお客様が「月虹さんに頼んでよかった」と、次のお仕事を相談してくれます。それがこれまでの3年間の統括です。わたしたちは次の3年間も、その次も、ただただそれを繰り返し、わたしたちがこの社会に存在する意義を高めていきたいと考えています。
これからも宜しくお願い致します。